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虎を画きて成らず反りて狗に類す

作者:未知  来源:日本ネット   更新:2004-11-16 18:56:00  点击:  切换到繁體中文

 

 後漢の建武十六年、伏波将軍馬援は兵一万余兵をひきいて交趾(イン
ドシナの東京・河内地方)に南下した。徴側・徴弍という強力無双の姉
妹が漢の植民政策に叛旗をひるがえし、城をぬくこと六十五、勢いはさ
かんで徴側は王と称していた。馬援はこののち三年ごし叛乱軍と苦戦す
ることになる。
 
 この馬援が交趾から都におくった手紙がある。兄の子馬厳・馬敦にあ
てて、二人が遊侠の風をこのむというのをいましめたものだ。人の過失
を聞くのはよいが自分から言いたててはならぬ、国政を軽々しく批評し
てはならぬ、といってから、馬援はこう書いている。
 
「竜伯高はその人となり重厚かつ慎重、また謙遜で節倹である。わた
 しは彼を愛し、重んじ、そしておまえたちに彼を見ならってほしい
 と思っている。杜季良は豪快で義侠にとみ、人の憂いを憂え、人の
 楽しみを楽しむ。それゆえ彼の父が死んだときは、数郡の人があげ
 て来り、弔ったほどである。わたしは彼を愛し、重んずる。だがお
 まえたちに見ならってほしくはない。竜伯高に見ならえば、そこま
 ではいかなくても、少くとも謹直の士にはなろう。いわゆる、鵠を
 刻もうとして成らずとも、なお鶩には似るたぐいだ。だが、杜季良
 のまねをして、そのとおりにならなかったなら、ただ軽薄の才子に
 おわるだけだろう。いわゆる、虎を画いて成らず、かえって狗に似
 てしまうたぐいだ。心してほしい。」     (「後漢書」馬援伝)
 
 
 物ごとを学んでやりそこなうことや、素質のないものがすぐれた人の
まねをして軽薄にふるまうことを、「虎を画きて……」と言いならわす
のは、ここから出ている。そして馬援のこの言は、たしかに彼自身の体
験からにじみでたもののようである。彼は郡の巡察官であった若いころ
に、囚人護送を命じられたが、哀れんでこれを解き放ち、じぶんは北に
亡命した。やがて北方の地でおおくの客をあつめ、家畜数千頭、米穀数
万斛をもつ身になったころ、財を貧人に散ぜざればただ守銭奴のみ、と
いってことごとくの財を人にわけ、西方に奔って動乱の天下にとびこん
だ。隗囂につかえ、のち劉秀につかえる。こうしてみずから豪傑の風を
知る彼が、豪傑の猿まねをむしろにがにがしく思ったのは、自然のこと
でもあろう。彼はその弊を目で見ていたのだ。だが、この手紙は、それ
ぞれにどんな役割をはたしただろう。
 
 馬厳はその後を謹直な、しかし事にあたって節をまげない人としてす
ごし、八十をこえる一生を終っている。馬敦もほぼ同様である。二人と
も狗に類しはしなかったようだ。だがこの手紙は思いもかけぬことを馬
援にもたらしている。杜季良は、この手紙を材料にして人にそしられ、
本官を免ぜられた。そのとき光武帝(劉秀)の婿である梁松も、季良と親
しかったためにあやうく連座しかけ、そのためひどく馬援をうらむよう
になった。そして建武二十四年のことである。馬援はいまの湖南省にい
た武陵蛮を討つために遠征し、戦い敗れたまま、軍中で死んだ。このと
き梁松は光武帝に馬援のことをあしざまにいい、ために馬援は、死んで
から印綬をとりあげられるうき目にあうのである。一つの手紙も、さま
ざまな波紋をくりひろげた。
 
 


 

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